長年愛用してきたジャックパーセルの白レザーが本当に廃番になってしまった。いつでも買える定番モノだったのに。廃番になるってことは、売れていなかったということなのかな?それともレザーでつくることが、何かしらの理由で難しくなったんだろうか?とにかくショックです。代わりになるものを探さないといけない。キャンバス生地のローテクスニーカーなら愛用品があるから、レザーで真っ白のペタンコスニーカーを。
長年愛用してきたジャックパーセルの白レザーが本当に廃番になってしまった。いつでも買える定番モノだったのに。廃番になるってことは、売れていなかったということなのかな?それともレザーでつくることが、何かしらの理由で難しくなったんだろうか?とにかくショックです。代わりになるものを探さないといけない。キャンバス生地のローテクスニーカーなら愛用品があるから、レザーで真っ白のペタンコスニーカーを。
ウインカーをギリギリまで出さないのが
カッコいいとでも思っているのか!
車に乗ると些細なことで
イライラしてしまって本当に良くない。
良くないなあ、良くないよ。
どこへ行くにも歩きたいですけどね。
そういうわけにもいかないから。
前を走るトラックのリアバンパーに
リポビタンDのファイト一発の恰好で
2体の人形がしがみついていた。
トラックが走るたびに激しく揺れて
振り落とされそうになる姿が可愛くて
イライラ気分が少し消えました。
高校生の時、となりのクラスのY君の家に、一度だけ遊びに行ったことがある。Y君とは特に仲がよかったわけではなく、どうしてそうなったのか思い出せないけど、とにかくぼくともう一人で(これが誰だったかも思い出せない)、放課後Y君の家へ行った。とても立派な家で、部屋にはギターとベースが何本か置いてあった。CDもたくさんあった。
Y君はいつもニコニコしている穏やかでハンサムな男だった。ビートルズが好きで、ギターがとても上手だった。ぼくも当時ギターを練習中だったので、Y君からビートルズの曲の弾き方を教えてもらった。Y君は教え方も上手だった。
ぼくがある程度弾けるようになったところで、Y君はベースを持ってきて、一緒に演ってみようと言った。そして「せーの」で音を出した時の快感を、ぼくは今でも鮮明に覚えている。ギター1本で弾いている時は何も感じなかったのに、Y君のベースラインと合わさった時、心が震えた。ビートルズすげえ!と思った。
するとY君のお父さんがやってきて「もう夜になるから止めなさい」と言った。ぼくはもっとやりたかったし、まだ夕方の5時ぐらいだったから、Y君が父親を説得してくれることを期待した。しかし、Y君は素直に従った。育ちがいいのだ。
このたった一度切りの合奏を、ぼくは今でも思い出す。本当にワクワクした。そしてあの時、もうひとりの友達は何をしていたんだろう?
ふと横にいる子供を見ると
めずらしく真顔のまま黙って
じいーっと1点を見つめていた。
何考えようと?と聞くと
なにも考えとらんと言う。
いや何か考えよったろ?と追求しても
なーんも考えとらんと言う。
ええ?何も考えていない
状態ってどういう状態?
瞑想状態みたいな?
よく考えたら(また考えてしまった)
いつも何かについてあれこれ考えていて
ぼーっと頭を休めるということが
出来なくなっているのかもしれない。
はっさく大福は広島のお菓子で、なかなか買えないレアものらしい。高宮のボンラパスで「はっさく大福入荷しました」というのぼりを目にした妻が売り場へ行くと、もう売り切れていたそうだ。近くにいた店員さんに、これ広島でも人気でなかなか買えないんですよねと言うと、「そうなんです!バイヤーの努力で入荷できました!」と、はっさく大福を店頭に並べているこの我々の企業努力をあなたはわかってくれるんですね、という気持ちだったかどうかはわからないけど、誇らしげにそう話してくれたんだって。翌日も入荷するという情報をキャッチし、幻の?お菓子は無事我が家にやってきた。ぼくはいちご大福ファンなのでどうしても比べてしまうけど、これにはこれの良さがあって美味しかったです。
今日は坂道コースを歩いた。
高宮八幡宮でお参りした後
さらに上へと歩き
てっぺんから若久を一望して
大池小学校の横を下っていく。
向こうからランドセルを背負った
小学生がひとりで走ってくる。
土曜日も学校あるのかな?
遅刻で走ってるのかな。
サニーに立ち寄ると
たまに買っている
95円のみたらし団子が
1個増量中だった。
バレンタインデーということで、妻から手作りいちご大福をもらった。そして幼稚園から帰ってきた子供と一緒に食べた。ふわふわでとても美味しかった。
子供はそのあと、冷凍ごはんを解凍して梅干しと一緒に食べていた。ちょっと前にインフルエンザにかかった子供は、体重が2キロぐらい落ちた。その反動なのか、復活してからの食欲がすごいのだ。子供が「おいしいおいしい」と言いながら、ご飯をたくさん食べる姿を見るとうれしくなる。
ちなみに写真のお皿は、ホームページを作らせていただいた花祭窯・藤吉憲典さんの作品です。昨年の7月、博多阪急で開催された藤吉さんの個展に行った際に買いました。とても気に入っていて、毎晩のように食卓に登場しています。
辞書ってなに?と聞かれたので
いろんな言葉の意味が
載っている本だと答えた。
そして子供に聞いてみた。
ぼく「麻雀とは何でしょう?」
子供「好きな人なら何時間でもできる遊びです」
予期せぬ角度から返ってきたな。
すこし前にテレビで見たのだった
100歳の方が元気に何時間も
マージャンを打ち続ける姿を。
ぼく「じゃあうんちは?」
子供「ごはんをたくさん食べたらお尻から出てくるものです」
なんて真っすぐな回答なんだ!
ちょっと詩的ですらある。
朝起きたらまず半てんを羽織り
ストーブに火をつけて
白湯を飲む。白湯!
まるで丁寧な暮らし系女子みたいだけど
(あるいはおじいちゃん)
寒い朝に飲む白湯はうまいのだ。
あるタレントさんが
最も苦手な飲み物は
白湯だと言っていた。
変な味がして気持ち悪いらしい。
変な味?白湯が?
ほんのり甘くて美味しいけどね。
ラジオ(ぱおーん)で耳にした情報によると
今コンビニでも白湯が売っているそうですね。
アジアカップが地上波のTVで放送されない悲しさ。決勝トーナメント1回戦も放送しないだって?なんてこった。トーナメント表を見てぼくは驚いた。そこにパレスチナの文字があったから。国があのような状況にも関わらず、出場して、さらに勝ち上がってくるなんてすごい!
「ガザに地下鉄が走る日」を読んでから、パレスチナのことがずっと頭の片隅にある。たかが本を1冊読んだだけで、分かった気になってはダメだけど、自分の無知さを思い知って動揺した。
パレスチナの人たちは、アジアカップの試合を観ることはできるのかな?日本でぬくぬくと暮らしているぼくたちが見られないんだから、テレビ観戦なんて出来ないだろうな。代表チームが勝ち上がっているというグッドニュースが届いていると良いんだけど。
ナクバ(イスラエルによる一方的な占領)から17年、いつか誰かが自分たちをパレスチナに連れ戻してくれることを夢見て、失ったものを恋しがりながら難民という境遇に甘んじていた親の世代とは対照的に、ノーマン(何者でもないもの)として難民キャンプの泥土のなかで成長した難民二世の子どもたちは、家族の糊口をしのぐために自分の人生を犠牲にするのではなく、パレスチナを取り戻すために、命を賭して戦うことを選んだのだった。
彼らは「難民」という人道問題であることを止め、祖国の解放とそこへの帰還のために銃をとり、解放戦士たちとなってこの世界の前に立ち現れることになる。彼らを難民キャンプという砂漠の辺獄に留めおき、その存在を安らかに忘却していた人間たちの喉元に銃を突きつけ、この世界の安寧を揺さぶる彼らを、世界は「テロリスト」と呼んだ。何者でもなかった者たち、人間ならざる者たちが、人間として、政治的主体として、この世界に存在を刻みつけた瞬間だった。
『ガザに地下鉄が走る日 – P37より』
幼稚園でタイムカプセルをやるから
未来の子供に手紙を書いてと頼まれた。
妻とぼくから1通ずつ。
7年後の子供に宛てて書いた。
小学6年生の君へ。
先に妻が書いた手紙を
読んでじーんとくる。
伝えたい気持ちは同じだった。
なるべく被らないように書いた。
書きながらウルっときた。
銀シャリと和牛の区別がつかないぐらい、M1(お笑い)事情に疎かった我々は、今頃になってアマプラで過去の大会を観ています。そして「今の点数は低すぎるやろ」とか「なんでこの人たちが優勝なんだ」とか、きっと当時のYahooコメントに溢れていたのと同じレベルでわーわー言っている。ミルクボーイを見た子供がコーンフレークを食べてみたいと言うので、スーパーへ買いに行った。シリアルがずらっと並ぶコーナーを見て、子供は今まで猫のごはんだと思っていたらしい。ついでにぼくも食べてみた。たぶん小学生の時以来だから、約38年ぶりのコーンフレーク。味は全く変わっていないように感じた。最後にお皿にすこし残った牛乳は、甘くてなつかしい味だった。
すすで汚れたしまった
石油ストーブの掃除をしたら
手が真っ黒になった。
非日常的に手が汚れると
うわあーとか言いながら
ちょっとうれしい。
クレヨンで絵を
描くのが楽しいのは
手が汚れるから。
幼稚園から帰ってくるなり
今日は椅子取りゲームで
35人中5位だった!と
うれしそうに報告してくれた。
その翌日は35位だった。
幼稚園までの道のりは1.5km。
同じ地区の子供たちと一緒に
引率の先生と歩いて行く。
小学生になったら
ひとりで歩いていくんだろうか?
狭い道をびゅんびゅん飛ばす車もいるし
怖いよねという話をしていると
「よし決めた!おれタクシーで行く」
と子供が言った。
考えごとをしている時に電話が鳴った。
しかもケータイではなく
固定電話のほうにかかってきた。
めったに鳴らない音にビクッとして
慌てて受話器をとったぼくは
「お電話ありがとうございます
株式会社・・・ハラプロ原田です」
と言ってしまった。
ハラプロは株式会社ではありません。
なのになぜそう言ってしまったのか?
ぼんやり頭で電話をとった結果
ぼくの脳は20年前の制作会社時代に
タイムスリップしてしまったのだ。
(しまった!)と焦っていると
受話器の向こうの人が
「〇〇さんのお宅じゃないんですか?」
と言った。まちがい電話だった。
電話をかけたほうもとったほうも
両方間違えるなんてことがあるんですね。
お客さんじゃなくてよかった。
ぼくも妻もこの家が大好きなのです。時を戻すと、紙に書いたのがはじまりだった。子供がまだ小さい時、はじめての子育てでひーひー言っていた。自分たちの気持ちや時間をほぼ子供のために使っていて、もちろんそれはそれで良いんだけど、自分たちのやりたいこともやれたらもっと良いよねと、お互いやりたいことを紙に書いた。映画を観に行きたい、旅行に行きたい、そんな願望と一緒に「仕事環境を良くしたい」と書いた。妻も賛同してくれた。それからとんとん拍子に事が運んでいった。事務所を借りるより、中古の家を買って理想の仕事部屋をつくるという考えに至り、運よくこの家と出会った。はじめて間取図を見たとき、玄関の横にポコっと突き出た部屋が「どうぞここを仕事部屋にしてください」と言っていた。