戦争と平和の余韻から抜け出して
今は『白鯨』に取りかかっています。
独特の文体になれるまでに
すこし時間がかかりましたが
ようやく脳が馴染んできました。
戦争と平和の余韻から抜け出して
今は『白鯨』に取りかかっています。
独特の文体になれるまでに
すこし時間がかかりましたが
ようやく脳が馴染んできました。
『戦争と平和』を読み終えました。ぼくの中の文学ベスト5に、間違いなく入ります。めちゃくちゃ面白かった。堅いタイトルで損してるよなーと思っていたけど、読み終えたいま、この大長編にふさわしいタイトルは「戦争と平和」以外考えられない、という気持ちです。登場人物はなんと総勢559人!ワンピースも真っ青です。しかも、大抵の作品は一人ひとりの性格が決まっていて、ジャイアンはジャイアン的な言動や行動しかしないけど、トルストイが生み出すキャラクターは複雑な人間そのもので、その時の状況によって、グラグラと揺れ動きます。それが非常にリアルです。100%の善人なんていないもんね。しかし、どうしてロシアにはトルストイやドストエフスキーのような偉大な作家が何人も出現したんだろう?と考えたのですが、それはたぶん寒いからだ、と結論付けました。
フランス軍の捕虜になってしまったピエールが苦しい捕虜生活から解放された時、ぼくは30年前の自分の体験を思い出しました。それは何かというと、アルバイト情報誌anに載っていた楽しいイラストに釣られて応募したテキヤのアルバイト経験で、大きなトラックの荷台に乗せられて、九州各地のお祭りに連れていかれ、風呂にも入れず、朝から晩までビニール人形を売り続けるという過酷な5日間から解放されたとき、ぼくはピエールと同じように自由の喜びを全身で感じました。お金のためにキツイ思いをしたはずなのに、もはやお金なんてどうでもよくなっていました。そしてピエールがナターシャと再会して、これから2人の結婚に向けた話が描かれていくのか、と思いながらぺージをめくると、唐突に「エピローグ」という文字が現れて震えました。ここで終わらせるとは!この後にエピローグが150ページもあるから、本当の終わりはまだ先だけど、物語としての終わりは、あのナターシャの台詞ということでいいんですよね?余韻がすごすぎる・・・。
すでに読んだ2巻を何気なく手にとって、ぱらぱらっとぺージをめくったら、ロストフ一家が狩りをする場面に当たりました。本筋とはあまり関係のない話で、全体からすると重要度は低いんだけど、心に残る場面です。この時だけ登場するニコライの叔父が、いかにも自然の中で暮らす高潔な自由人で、話をしながら突然「天地神明!」と叫ぶ変人で、最高でした。
狩りのあと、叔父の家(猟犬が泥まみれのまま書斎に入るような粗野な家)で、採れたてのはちみつ、胡桃、りんご、きのこ、ジャム、ハム、鶏肉、をみんなで食べながら、ギターを弾いて、歌って過ごす平和な夜は、豪華絢爛で世辞にまみれた社交界との対比で、とても魅力的に映ります。やっぱり自然の暮らしっていいな。名脇役は他にもたくさんいるけど(例えばトゥーシン大尉やバグラチオン公爵など)、脇役大賞はニコライの叔父で決まりです。天地神明!
大江健三郎さんの『新しい文学のために』を読んでいると、ふいに大江さんがトルストイの「戦争と平和」について語り始めた。そこには、ピエールとナターシャが結婚するという、ぼくがまだ知らない大事件がさらっと書いてあって、慌ててぺージを閉じた。間に合わなかった。盛大なネタバレをくらってしまった。思わず(健三郎ー!)と心の中で叫んだけど、それは大江先生のせいではなかった。アンドレイ公爵が死んだ時、うすうす気づいてはいたけどね。ぼくのこのブログも、戦争と平和をまだ読んでいない人にとっては、ネタバレを含みますのでご容赦ください。
主要人物であるアンドレイ公爵の死に方は印象的で、まるでトルストイ自身が一度死を経験したことがあるような描き方だった。おそるべし、トルストイ。死は生からの目覚めである、という言葉が強烈に心にくいこんできました。終わりではなく、ただの意識の移行だとしたら、死はそんなに怖いものではないですね。「魔の山」の雪の章(多くの人が作品のハイライトに挙げる有名な章)を読んだときにも感じたけど、どうしてトーマス・マンやトルストイが「そのこと」を知っていて、書くことができたのか、不思議で仕方ありません。ChatGPTにそのギモンをぶつけると、それが文学の神秘なのです、とカッコいい答えが返ってきました。

『教養としての建築入門(坂牛卓著)』
建築のことを語っていながら、建築以外のことにも通じる部分がたくさんあって面白かった。心に残った点をざっと。
・建物の基礎ができた時、頭で想像していた大きさと違うことがあってビックリする。
・壁をほんの10cmずらす、20cmずらす、気の長い試行錯誤(ホームぺージ制作と同じだ)
・建築は時間的な経験でもある
・美しいもののみ機能的である(丹下健三)
・ものの大きさは人を感動させる(ピラミッド)
・建築家はみな理念(蓄積された方針)を持っていて、設計する時にその理念を呼び出す。そして完成するまでの期間、理念が心の支えとなる。
ぼくにとっての蓄積された方針、すなわち理念は何だろう?と考えると、それは「等身大のホームぺージをつくる」ということだと思う。その会社(その人)以上でもなく、以下でもない、ありのままの姿を反映させたホームぺージをつくること。
やったー!やりました!青幻舎の幻本復刊プロジェクト最後の1冊が、佐内正史さんの「生きている」に決定しました!うれしいー。ぼくもリクエストフォームから投票したのです。東京都写真美術館の図書室ではじめて見て衝撃を受けて以来、何度プレミア価格の古書をポチろうとしたことか。踏みとどまってよかった。「生きている」が新品で手に入るなんて夢のようです。絶対に買います。
「幻本」復刊プロジェクト 第3弾決定!
— 青幻舎_30周年 (@SEIGENSHA) September 25, 2025
青幻舎は2025年10月11日に創立30周年を迎えます。
その日を目前にしたこのタイミングで、復刊タイトル第3弾となる、最後の一冊が決定しました。
そのタイトルは……
佐内正史『生きている』(1997年刊)… pic.twitter.com/oDqXqh3J0c
戦争と平和の3巻を読み終えました。3巻は戦争のシーンが多く、個人よりも集団(国家)にフォーカスされていて、途中すこし退屈しました。しかし、終盤にとっておきのシーンが用意されていた!アンドレイ公爵とナターシャの再会。感動的な語句を一切使わず、たった一行で終わらせるトルストイの凄さ。次はついに最終巻です。
2024年7月24日
毎月必ず3冊本を買うと決めたのに、まずいぞ、残り1週間のうちに買わないといけない。トーマス・マンの「魔の山」を買うことは決めています。トーマス・マンの「魔の山」という名前から漂う圧倒的な本物感。トーマス・マンの「魔の山」が、駄作なわけがない。トーマス・マンの「魔の山」が本棚にある人と無い人だったら、あるほうがかっこいいに決まっている。ただ問題は、新潮文庫で買うべきか、岩波文庫で買うべきか、そこです。翻訳は相性があるから、実際に読んで決めよう。
2024年8月30日
魔の山をちびちび読んでます。魔の山の物語自体がちびちびゆっくり進むので、それをちびちび読んでも一向に話は進展しない。でも面白い。日常でどんなことがあろうと、本を開いた瞬間、その本でしか味わえない完全にオリジナルな世界の中へすっと入っていける小説こそが、名著なのかもしれんなあ、とか思いながら。
2024年12月23日
ようやく上巻を読み終えました。7月から読みはじめて、半年もかかってしまった。出かける時は常にカバンの中に入れていたからもうボロボロで、半年前に買ったとは思えない風格が漂っています。自分の手でボロボロにした文庫本は良い。ツルツルピカピカの文庫本より、汚れて、折れ曲がった文庫本のほうが、絶対に良い。上巻のラスト「鉛筆ちゃんと返してね」は、ここまで我慢強く読んできた人だけが味わえるゾクゾク感がありました。さて、これからとりかかる下巻は、上巻よりも更に分厚い!
2025年2月6日
「魔の山」がなかなか進みません。いま下巻のナフタの過去話のところ。きついー。再開しても1ページで閉じてしまう。急に出てきたナフタというキャラにぜんぜん興味が持てないから読み飛ばしたい。正直ナフタが言ってることの半分以上は理解できません。難しすぎて。でもがんばろう。せっかくここまで飛ばさずに読んできたから。はやくナフタの過去話終わってくれ。
2025年2月14日
いまナフタとセテムブリーニが激しい討論をしているけど、この人たちは何について討論しているんだろう?さっぱりわからん。時折ハンス・カストルプが口を挟むと、決まってセテムブリーニに「未熟者は黙って聞きなさい」と叱られる、にも関わらず、またちょっと背伸びをしては叱られる。下巻になって難解さが加速しています。魔の山を読んだ人はどんな感想を持ったんだろう?と、SNSで検索してみると、つまらなすぎて読み終えるのに3年かかったという人がいた。またある人は、作者のトーマス・マンって実はバカなんじゃない?と言う人がいて、思わず笑ってしまった。ただ確実に言えるのは、「わからない」と「つまらない」は違うということ。
2025年2月26日
いつもカバンの中に文庫本をひとつ入れていくので、今は「魔の山」が、ぼくと行動を共にしています。打ち合わせ時刻の1時間前、現場近くのパーキングに車を停めて待機している間、魔の山をパラっと開きます。ウエスト中華飯店で頼んだチャーハンが到着するまでのわずかなスキマ時間も、魔の山をパラっと開きます。寝る前もパラっと開きます。どのタイミングで開いても、難しくて1ページぐらいしか進まない。魔の山がいつもそばにあって、後から振り返ると、あの時はいつも魔の山を読んでいたなあという思い出になるのか、ならないのか。読みはじめてもう半年が経ちました。
2025年3月8日
いまの若い人はなんでもかんでも「カワイイ」と「ヤバイ」で表現していて、いちいち言語化するのが面倒臭くなっているのか、それとも人類の進化(退化)として、言語はどんどんシンプルになっていく宿命なのか。こだわりの本をセレクトする硬派な本屋の店主が、「まじカワイイー」と言いながらスマホで店内を撮影し、何も買わずに出ていく若者に腹を立てていた。うちの店がカワイイわけないだろ!って。魔の山では、あの難解コンビ「ナフタとセテムブリーニ」が出てきて、フリーメイソンに関する退屈極まりない議論をはじめて、もう何を言っているのかさっぱりわからん。しかし、読み飛ばさず、内容の98%は頭に入ってこないのに、必死で文字を追っていく、そんなストイックな自分にシビれるのだ。98%頭に入ってこない文字を追うことに、果たして意味はあるのだろうか?たとえ頭に入ってきても、1年後にはキレイに忘れているから、じゃあ何のために本を読むのか?それは永遠の謎だ。いくら魔の山を読んだところで、実際に人と会話をはじめると、ぼくの言語能力は「カワイイ」と「ヤバイ」でなんでも表現する若者と大して変わらない。
2025年3月14日
ついに最終章に突入しています。ペーペルコルンというオランダ人の大富豪がやってきて、この人がすごく人間的で、魅力的で、ページをめくる速度がぐっと上がりました。そして、難解で高尚な議論をいつも交わしていた2人(ナフタとセテムブリーニ)が、やたら小さい人間に思えてきました。あと300ページ残っているとはいえ、物語の終わりがなんとなく近づいています。さみしい!魔の山を読み終えたら、同じように読み終えた人と話したい!こんなに読むのがしんどくて、半分以上退屈な小説なのに、そう思えるのが不思議です。夏葉社の島田さんが著書「長い読書」の中で、魔の山について書いているようなので、それを読むのも楽しみです。
2025年3月17日
残り160ページ。ゴールが見えてきた嬉しさと、終わってしまう寂しさ、後者のほうが大きいです。いま、ハンス・カストルプがレコードにハマっています。とても重くて、劇的なエピソードのあとで、しかも長い長い物語の最終盤にきて、主人公がレコードにハマるという意外性。クラシックを中心に、音楽の話題が展開されています。まさかこのまま終わらんよね?小説の中で音楽のうんちくを語るといえば、村上春樹さんがその代表ですが、きっと村上さんは魔の山の影響を受けていたんだな。ノルウェイの森の主人公(ワタナベくん)は、たしか魔の山を読んでいましたよね。
2025年3月21日
ついに読み終えました。半年以上かかったけど、下巻の途中からはぐいぐい読み進めて、一気にラストまでたどり着きました。すごかった。ところどころ難しくて字を追うのが苦痛だったけど、それ以上の喜びがありました。いつのまにか自分があの魔の山の中に入りこんでいました。こんなとんでもないものを一人の人間が書けるなんて、人間ってすごいな、これから先、これを超える読書体験はあるのかな?

『デイヴィッド・ホックニー 僕の視点 芸術そして人生』
1993年発行の古い本で、生き方や芸術論、作品について、ホックニーが自分の言葉で語っています。そういう気持ちで絵を描いていたのか!と、読んでいてうれしくなります。
興味を引かれたのは「写真の限界」と名付けられた、写真についての考察。ホックニーはこう言っています。「人によって世界の見え方は違うから、絵画は突き詰めると抽象画しか存在しないのではないか。そして写真も洗練された抽象なのではないか」と。写真が抽象?そしてピカソが追求したキュビズム(複数の視点を1枚の絵にしたアレ)は、時間も空間も超えて、写真ではとらえることのできない真実に迫り、写真を超えられるのではないか、と。言わんとすることは分かるけど、でもよくわからない。でも面白い。
ピカソのことをたくさん語っていて、ホックニーがいかにピカソに対して特別な想いを抱いていたのかがわかります。一流の画家にとっても、ピカソは怪物なのだ。中国の桂林を旅して、その美しさに魅了されるホックニー。英語が話せない現地の少年画家と、絵を通じて心を通わせるエピソードがとても良い。
1988年、知人のポートレイト作品を描きはじめる。「どの絵も短時間で仕上げた。自分の知っている人間をモデルにした。だが、自分がモデルになった絵を気に入ってくれた人はほとんどいなかった。実物以上に立派に描くことをしなかったせいだろうか」(David Hockney)

たった一行でも心に残る文章があればいい。『歩くこと、または飼いならされずに詩的な人生を送る術』という本がそうだった。何事もうまくいかず、ボロボロの状態だった主人公が、歩いているときに突然、幸福を感じる。「自分がいま幸福なのは歩いているからだ」という一行。税込2,915円。それが一行の値段だとしたら、ちょっと(いや、かなり)高いな。
この本は、カメラマン黒川さんとの撮影の旅の途中、熊本の書店で買った。店主のセレクトが光る書店だった。その時いっしょに買った吉増剛造さんの『詩とは何か』は、ぼくの愛読書になった。この本はそこまでの位置にはいかなかった。でも、あの時あのお店で買ったという思い出がセットになっている。Amazonで買うとそうはならない。だから買い方も大事だと思う。(Amazon便利だから使ってしまうけど)
最近は暑いから、汗をかきたくないから、歩くことを避けてしまっていたけど、髪を切ったついでにたくさん歩いたら、気持ちがよかった。汗だくになったけど、頭の中がスッキリした。
取材で福山市へ行った際
自由時間があったので
あてもなくぷらぷら歩いていると
児島書店という昔ながらの
古本屋を見つけた。
旅の思い出に一冊
「詩への架橋」という本を選んだ。
レジへ持っていくと
うず高く積まれた本と本のすき間から
店主の顔が半分だけ見えた。
福岡から来たことを告げて
福山の名物を尋ねると
「ねぶとの唐揚げ」を教えてくれた。
帰りにあなご飯と
ねぶとの唐揚げを買って
新幹線の中で食べた。

『神々の沈黙』は、3000年前まで人間は「意識」を持たず、「神の声」を聞いて行動していたという仮説が書かれた本です。やがて人間に神の声は届かなくなり、ぼくたちのような現代版の人間になっていったそうです(あくまでも仮説です)。
なぜ「神の声」が聴こえなくなったのか?それは人間が「ことば」を発明したからで、ことばによって人に意識が芽生え、神の声ではなく、自らの意識で行動するようになったそうです。
やさしい哲学書『はじめて考えるときのように』には、「ことばがなければ考えられない」と書いてあります。人は何かを考える時、ことばを使って考える。ことばを発していなくても、頭の中でことばを使って考える。ということは、ことばが誕生してはじめて人に意識が宿ったというのは本当のことかもしれません。
じゃあ「神の声」って何なんだ?
工学博士の田坂広志さんは著書『死は存在しない』の中で、ゼロ・ポイント・フィールド理論を唱えています。この世には、宇宙の過去・現在・未来のすべての出来事が記録されているエネルギーの場「ゼロ・ポイント・フィールド」があって、自分たちもそのエネルギーの一部にすぎないと言っています。
意識的にゼロ・ポイント・フィールドと繋がることはできないけど、無意識がつながることがあって、その時に予感とか、デジャヴとか、不思議な偶然とか、なぜかそのことを知っていた、みたいな現象が起こる。宗教でいう神や天とは、ゼロ・ポイント・フィールドのことだ、と言っています。
もしそれが本当なら、まだ意識を持たなかった(ことばを持たなかった)大昔の人は、神の声を聞いていたんでしょうね。詩人・田村隆一さんの詩に「ことばなんて覚えるんじゃなかった」という有名な一行があるけど、田村さんは感覚的にそのことを知っていたのかな。

現代アート作家の大竹伸朗さんが書いた本「既にそこにあるもの」は、ものづくりをする人にとって、大いに刺激をもらえる本です。作品も魅力的だけど、ぼくは大竹さんの思想に強く惹かれます。「コンセプト」という言葉を嫌い、もっと根源的な「つくりたい気持ち」に従って正直につくる。たくさんつくる。拾った紙の上に、拾ったモノを貼り付ける。手を動かす喜びが、大竹さんのパワーの源だ。
写真家の石川直樹さんと大竹伸朗さんが、あるテレビ番組で対談をした。石川さんも写真集をたくさんつくるタイプの人で、膨大な作品数を誇る大竹さんのことを尊敬しているそうだ。そのことを石川さんが口にすると、大竹さんはちょっと照れながら「本当はもっと数少なく、作風を絞ってやったほうがカッコイイんだろうけどね。でも毎日作っていないと不安になるんだよ。だから結局、作品の数が増え続けてしまうんだ」と言った。カッコイイなと思った。

なんの情報も無しにこの写真集「KUMANO」を見て、これは名作だ!と言える人はどれぐらいいるんだろう。1年前、東京の「bookobscura」で買いました。ビニールが被せてあったので、店主に「中を少し見せてもらえますか?」と尋ねると、ビニールをはずしてカウンターの上にそっと置いてくれました。そして店主の目の前で、緊張しながらページをめくったことを覚えています。
終盤、紙面全体が真っ赤な炎に包まれていくところはとても迫力がある。火の熱さを感じるほどです。その反面、前半から中盤までずっと続く、なんの変哲もない風景写真が、ぼくにはよくわかりませんでした。いったい何を撮っているのか?今でもよくわかっていません。でも不思議なことに、あのなんの変哲もない写真のほうが、迫力ある炎の写真よりも、イメージとして強く頭の中に残っています。なんでやろう?そしてよくわからないからこそ、何度もページを開いてしまいます。
いま3巻の途中です。失速中。どうして失速しているのかというと、ナポレオンとの戦争が詳細に描かれていて、ちょっと退屈だから。モームは「読書案内」の中で、退屈なシーンは飛ばしていいよ、飛ばして読んでもその作品の偉大さが損なわれることはないから、と言っているけど、性分的にそれが出来ない。だから失速しています。マリア嬢に幸福の兆しが見えたのは良かった。