子供「いらすとやって儲かってると?」
ぼく「どうかなあ、最近はみんなAIイラストを使うけんね」
子供「ぼくはいらすとやの絵のほうが好きなんよ」
ぼく「おとうさんもそうだよ」
子供「可愛げがあるよね?」
子供「いらすとやって儲かってると?」
ぼく「どうかなあ、最近はみんなAIイラストを使うけんね」
子供「ぼくはいらすとやの絵のほうが好きなんよ」
ぼく「おとうさんもそうだよ」
子供「可愛げがあるよね?」

ボーダーライン小倉店で1,280円。1曲目の「チェロキー」をリピートで延々聴きたい。しかし、アナログレコードにそんな便利な機能はないのであった。クリフォード・ブラウンのトランペットは音色が綺麗。耳をつんざくような音を出さない、やさしいジェントルマン。
ヒラタくんは、やっぱりヒラタクワガタだった。コクワガタじゃなかった!グリーンコープのお兄さんが、玄関に置いてある虫かごを見て「何を飼ってるんですか?」と聞くので、「クワガタです」と見せると、「あ、ヒラタですね。大きいですね。このへんクワガタよくいますもんね」と、教えてくれたのだ。ChatGPTめ!ぼくはAIより、グリーンコープのお兄さんを信じる。
特急ソニック号に乗って、子供と「小倉駅ナカ本の市」へ行った帰りに、駅のホームで食べたかしわうどんが美味しかった、というブログです。
うどん自体が美味しいのはもちろん、この時の美味しさには3つの隠し味がありました。ひとつめは、普段小麦を避けているぼくにとって、数年ぶりのうどんだったから。ふたつめは、移動と古本市と漫画ミュージアムで疲れた体に染み渡ったから。そしてみっつめが、立ち食いうどん初体験の子供といっしょに食べたから。カウンターに届くかな?と心配でしたが、ちょっとだけ背伸びをしながら食べることができました。
佐内正史さんの写真集『生きている』が、30年ぶりに復刊されました。ぼくは青幻舎の復刊希望フォームから『生きている』をリクエストしていたので、復刊が決まったときは歓喜して、すぐに予約しました。そしてついに手元に届き、やっぱりいい!と思いながらページをめくりました。その反面、記憶のままでもよかったかもしれないな、と思いました。決して期待はずれだったとか、もう好きではなくなったとか、そういうことではなくて、東京都写真美術館の図書室ではじめて見たときの感動があまりにも大きかったから、そのときの記憶・・・奥の書棚から職員さんがうやうやしく持ってきてくれた『生きている』を開いて、日産スカイラインを撮った1枚(世の中で一番カッコいい写真)に興奮して、そのあと1ページ1ページ嚙みしめるように見た記憶を、上書きしないほうがよかったんじゃないかと思ったのです。
子供が、切った紙を貼り合わせて、自作の「しおり」をつくった。その時につかった糊が、「失われた時を求めて」の2巻の表紙にいつのまにか付着していて、ドラえもんの表紙とくっついてしまった。そして、表紙の一部がピリリと剥がれてしまった。
ちょこっと破れているのがわかりますかね。あちゃーと思ったけど、あとできっと、あの時子供がつけた糊で破れたんだよなあ、と思い出せるからいいや。
それにしても、なんてすばらしい装丁なんだ!何度でも言いたい、ちくま文庫の『失われた時を求めて』の装丁の美しさは別格だと。作品世界を見事に体現していて、文句のつけようがない。
子供に「しおりをつくるなら、糊は使わないほうがいいよ」と言うと、今度は糊をつかわずに、イラスト入りのしおりを自作した。
「クマのプーさん」なのに、プーさんを描かないセンスに唸る。どれかひとつあげると言われたので、迷ったけど、銀河鉄道の夜を選んだ。
ついに1巻を読み終えました。深い感動。物語が面白いわけではないのに、というか物語らしい物語は無いに等しいのに。驚嘆するのはプルーストの表現力で、だれもが心の中に一度は感じたことのある感情を、いろんな言葉や比喩をつかって、的確に表現してくれるので、忘れていた感情(記憶)が自分の中に蘇ってきます。
1巻の終盤、語り手が昔を懐かしみ、自動車なんかよりも馬車のほうがエレガントでよかったと嘆いていて、そうか、昔の人も「昔のほうがよかった」と感じていたのか、いつの時代でも同じなんだなと思いました。それは単なる懐古趣味なのか、それとも実際にいろんなことがどんどんダメになっているのか、どっちなんでしょうね。
9月16日 はじめてのこと
父の葬儀。大丈夫だと思っていたのに、言葉を口にした途端、涙があふれる。子供に「おとうさんが泣いてるのを初めて見た」と言われた。たしかにそうかもしれない。
9月23日 シルバーウィーク
世間は連休中だけど、黙々とたまっていた仕事をこなす。午後、気分転換に子供とさんぽ。よかばい堂まで歩き、岩波文庫の『幸福・園遊会 他十七篇: マンスフィールド短篇集』(絶版)を400円で購入。帰り道、子供とふざけあっていると、時計のバネ棒がはずれてどこかへ飛んでいってしまった。
9月25日 ぼくは脳ではない
博多区役所で諸々の手続き。とにかく人が多い。待ち時間が長く、本を持ってこなかったことを悔やむ。区役所を出たとき、ずしりと重い疲労を感じたので、スタバに入ってカフェイン抜きのソイラテ(+シロップ半分)を飲む。そしてMUJI BOOKSへ行き、『私は脳ではない』という本を購入。ぼくも自分は脳ではないと考えている(ぼくの意識、感じたり、考えたりすることが、ぼくの体の中にある脳だけでおこなわれているとは思えない)ので、タイトルを見た瞬間に買うことを決めた。よく歩いた1日だった。
9月27日 生きている
日曜日。家でごろごろして過ごす。昼寝をしたり、子供とゲームをしたり。マイクラを一緒にやってみるも、操作が難しくて苦戦する。夕方、予約していた佐内さんの写真集『生きている』が届く。東京都写真美術館の図書室ではじめて見たときの記憶がよみがえる。
10月3日 読書の秋
子供が岩波少年文庫の『モモ』を読破した。きっと大きな自信になったと思う。ぼくもうれしい。
TSUTAYA DISCASでレンタルした『すべての些細な事柄』が届いたので観ました。見終わったあとに、じんわりと、ずっと、心に残るような映画でした。何も起こらない系の映画でも、あざとい演出が見えた途端にがっかりすることがありますが、そういうことも一切ない、本当に何も起こらない、静謐な映画でした。すばらしかった。
精神科診療所で過ごす人たちの顔が良くて、だれが患者で、だれがスタッフなのか、一切説明がないのだけど(そこがまた良い)、カメラを意識していてもしていなくても、変に笑顔を作ったりしないその表情が、強く印象に残りました。
途中、患者の伸びすぎたヒゲをハサミでカットする場面があって、そのハサミが異様にでかくて、おまけに切れ味も悪くて、ジョキンッ!ジョキンッ!と大きな音を立ててヒゲを切るもんだから、見ていてヒヤヒヤしました。そのヒゲの人は、日中あてもなく庭を歩き続けていて、最後のシーンも、そのヒゲの人の後ろ姿で終わります。似顔絵を書くシーンもよかったな。映画のクライマックスである演劇会のシーンも感動的です。

長いあいだ欲しいレコードの筆頭だった『エラ・フィッツジェラルド&ルイ・アームストロング』。これまでなかなか出会えずにいたのですが、グルーヴィンの新入荷コーナーでついに見つけました。状態のいい帯付きのため、グルーヴィンさんにしては少し高め(といっても3,300円だから全然高くないんだけど、グルーヴィンさんはブルーノート以外のレコードを1000円~2000円代で出してくれる良心的なお店だから)でしたけど。
ぼくはジャケットを丸ごとぜんぶ眺めたいので、帯は速攻で捨てる派ですが、これはなぜか帯をつけたままにしておきたい気持ちです。このレコードに関しては、ジャズが好きかどうかは関係なく、音楽が好きな人であればきっと気に入るんじゃないでしょうか。エラ・フィッツジェラルドの美声と、ルイ・アームストロングのしゃがれ声(声質がそのまま芸術になるという稀有な例)に惚れ惚れします。またひとつ、宝物が増えました。
ふとした時に思い出す記憶、なぜか忘れられない思い出、そういうものは大抵、日常の些細な事柄で、それを5000ページにわたって綴っているのが『失われた時を求めて』だと、夏葉社の島田さんは著書の中に書いています。
その話の中に、フランスのドキュメンタリー映画『すべての些細な事柄』も出てきます。精神科の療養所の日々の様子を撮った静謐な映画で、この映画を観たときにも、島田さんは深く感動したそうです。ぼくもどうしても観たいと思い、ネットでDVDを検索するも法外なプレミア価格がついていて、アマプラなどのネット配信も一切されていませんでした。
それで諦めていたのですが、ふと、ChatGPTに相談したところ、TSUTAYA DISCASでDVDがレンタルできると教えてくれました。なるほど、その発想はなかったな。しかも100円!神!このデータ配信時代に、わざわざDVDをレンタル配送するサービスをいまだ続けているところに、TSUTAYAの意地のようなものを感じて、ちょっと感動しました。
今年の夏だけで、マンションのエントランスおよび階段で、6匹のクワガタを見つけた。さすがに6匹目(エントランスで逆さまにひっくり返ってもがいていたオスのコクワガタ)を見つけた時は、もうこれ以上うちで飼うことはできないと思い、植え込みのところにそっと逃がしました。なんでこんなにクワガタがいるんだろう?近所の緑地から飛んできてるのかな?それにしては多すぎるような気がする。近所にブリーダーがいて、そこから脱走してきているのかもしれないな。1匹、山の中に返したので、我が家にはいま4匹のクワガタがいます。みんな元気。ケースをきれいにして水を吹き、新しいゼリーに交換するのが、毎朝のルーティンになっています。
ぼく「月曜日はやっぱり忙しいなあ」
子供「日曜日は忙しくないでしょ?」
ぼく「そうやね」
子供「お父さんの仕事って終わりはあるん?」
ぼく「終わりは・・・ないね」
子供「目標もないしねえ」
ぼく「・・・」
ここ数日で一気に100ページほど進みました。スワンがオデットへの嫉妬心から心の中で暴言を吐きまくるようになって一気に面白くなりました。やっぱり人間の醜い部分が見たいんだ!(そればかりだとイヤになるけども)。
オデットのことを最初は美しいと思っていないのに、いつのまにか好きになり、やがて愛憎が入り混じっていくスワンの心の描き方がすばらしい。500ページまできて、やっとプルーストの世界に入り込めたという手ごたえを感じています。
先日、ロバート・フランクの『IN AMERICA』を見る機会がありました。フランクの代表作『THE AMERICANS』のアウトテイク集のような写真集で、どうしてこれを選ばなかったんだろう?と思うような、本当にすばらしい写真がたくさんあって興奮しました。
家に帰り、あらためて『THE AMERICANS』を見ると、1冊の写真集としてやっぱり完成されていて、『IN AMERICA』の写真は一枚の写真としてすごく力があったけど、この中に入れると違和感が生じるかもしれない、と感じました。そう考えると、写真は撮る行為と同じぐらい、選ぶ行為というものが、とても大事なんですね。
ぼくも仕事でよく「写真を選ぶ」場面があります。そして、それはすごく難しい作業です。選ぶということは、捨てることでもあるから。よく芸能人がインスタで、ほぼ同じような自撮り写真を何枚も載せていますが、あれは選ぶ能力が無いんだと思います。
8月28日 千代の富士
ファミリーマートで発売された千代の富士のハンドタオルが欲しくて、何件かハシゴするも見つけられず。残念。ちなみにぼくは子供時代、千代の富士に握手をしてもらったことがある(自慢)。
8月30日 柳川
電車で柳川に行き、ウナギのせいろ蒸しを食べた。いままで蒲焼き派だったけど、せいろ蒸しも美味しいと思った。川下りをしている人たちに手を振ったら、向こうも手を振ってくれた。三柱神社の池でスッポンに餌をあげた。スッポンは近くで見ると恐竜みたいだった。
9月7日 歯
前歯がグラグラして気持ち悪いと、なかなか寝付けなかった子供。翌朝起こしにいくと、歯が抜けていた。「歯どこいったん?」「飲み込んだかもしれん」子供が起き上がると、布団の上に歯が転がっていた。
9月12日 最期のいいね
父親のお見舞い。前日に北島三郎の幻を見たらしい。子供がスプーンで水を飲ませると、細くなった腕をゆっくりと持ちあげて、いいねポーズをした。これが最期の面会となった。
クワガタのメスを、那珂川町の山の中に逃がしてきました。なぜ逃がしたのかというと、いつもケース内を歩き回って、のぼり木のてっぺんからフタに向かって手を伸ばし、外の世界に出たそうにしていたからです。「逃がしてあげようか」と子供に聞くと、「うん、逃がしてあげよう」と言いました。移動中の車内でも、ずっと忙しくケース内を歩き回っていたのに、いざ広大な自然界に解き放たれると、じっと固まって、その場から動きませんでした。
半年経って、まだ1巻の半分までしか進んでいない。これまで読んできた文学作品の中で、最も苦戦しています。『白鯨』も『魔の山』もつらかったけど、『失われた時を求めて』のほうが断然きつい。
途中、はっ!となる箇所はあるけど、基本的に物語らしい物語がないから、自分がいったい何を読んでいるのかわからなくなります。登場人物のこともはっきりと描かれないから、だれのことも好きになれず、ただただつらい。つらい!
有名な「マドレーヌを紅茶に浸して記憶がよみがえるシーン」も読んだはずだけど、特に印象に残ってないなあ。大丈夫か?あと9冊もあるけど。しかし、あとで振り返ると、この苦しい道程の中にこそ、喜びがあったとわかるはず。
何かをつくるとき
つくりあげた作品よりも
もがき苦しんだ「過程」こそが尊いのだ
というようなことを
いろんな人が言っている。
ぼくもそのとおりだと思う。
AIをつかって
その「過程」をすっ飛ばしてしまったら
つくる意味なんて
なくなってしまうんじゃないかな。