子供が描く絵を見ていると
たまに自分のタッチに似ているな
と思うことがあります。
もちろん子供の描く線ほどに
いい線をぼくには描けないけど。
森山大道さんのワークショップに参加した人が、森山さんに撮った写真を見せると、大抵「撮った数が少なすぎる」と言われるらしい。シャッターを押す前にあーだこーだ考えすぎて、結局撮った枚数が森山さんのそれと比較すると、圧倒的に少ないそうだ。素人よりも、巨匠のほうが、貪欲に数を稼いでいるというのは、とても興味深い話です。
例えばルアーフィッシングでも、釣れる人は釣れない人よりたくさんルアーを投げている、これは真実です。いいキャッチコピーを書くための秘訣は、頭であれこれ考えるより、とにかくたくさん関連する言葉を書くことからはじまるし、デザインも1発で決まればラクだけど、実際はこれでもかこれでもかと、作り続けた先にゴールがあると思います。
いつもカバンの中に文庫本をひとつ入れていくので、今は「魔の山」が、ぼくと行動を共にしています。打ち合わせ時刻の1時間前、現場近くのパーキングに車を停めて待機している間、魔の山をパラっと開きます。ウエスト中華飯店で頼んだチャーハンが到着するまでのわずかなスキマ時間も、魔の山をパラっと開きます。寝る前もパラっと開きます。どのタイミングで開いても、難しくて1ページぐらいしか進まない。魔の山がいつもそばにあって、後から振り返ると、あの時はいつも魔の山を読んでいたなあという思い出になるのか、ならないのか。読みはじめてもう半年が経ちました。
ずっと前、まだWEB制作を仕事にする前、nanoloopというGameboyで動作するソフトウェア・シンセサイザーを使って、チープな電子音楽をつくっていました。
ちょうどインターネットが普及しはじめた時だったので、独学でつくったホームページに音源をのせて、海外のいろんなレーベルにメールを送っていると、アメリカの555 Recordingsというレーベルのスチュワートさんから返信が来て、今度コンピつくるから参加しない?と言われ、レーベル名にちなんだ55曲入りの(1分弱の曲ばかりを集めた)アルバムに入れてもらいました。
その後もスチュワートさんに「こんなのできたよ」と送り続けていると、いいやん!となってアルバムを出してくれることになり、25歳のぼくは有頂天になりました。その時、スチュワートさんの助言に逆らって、紙ジャケではなくプラスチックケースを選択したことを、今でも後悔しているのです。
スチュワートさんから何度も「紙ジャケのほうがクールだし、輸送コストも抑えられるから、紙ジャケにしてくれ」と言われました。しかしぼくは、CD収納ラックにきちんと収まらないという、ただそれだけの理由で紙ジャケを拒み、頑なにプラケースにこだわりました。結局スチュワートさんが折れて、プラケースでいくことになりました。
500枚プレスされ、そのうちの50枚がアメリカからぼくの家に送られてきました。それを自分で手売りしたお金が、ぼくの報酬ということです。頭のどこかでお金を貰えると思っていたぼくは、その時はじめてインディーズのリアルを知りました。自分の作品がCDになったことに感動したけど、段ボールの中に積まれた50枚のプラスチックケースが、なんだか味気ないモノに見えてきました。
プラケースのやり取りから、スチュワートさんとの間に気まずい空気が生まれてしまい、その後メールをやり取りすることは無くなりました。
スチュワートさん、元気かな?あの時ちゃんとスチュワートさんにお礼を言えていないような気がする。遠い国の、見ず知らずのぼくの音楽に耳を傾けてくれて、拙い英語にも辛抱強く付き合ってくれて(まだグーグル翻訳のような便利なものはなかった)、当時の小さな夢を叶えてくれたことに対して。今度スチュワートさんに手紙を書こう。そしてプラケースにこだわったことを謝ろうと思う。
ちなみにこの時の体験で、ぼくはインターネットの可能性にシビれ、ホームページ制作の道に進むことを決意しました。
たしか本屋青旗さんが出来て間もない頃、そこで濵本奏さんの「midday ghost」を見て、うわ、いい!と思ったけど、当時はすでに評価の定まった過去の名作ばかり追いかけている時だったので、いや、これを買うよりも、中平卓馬やエグルストンの古書を探して買ったほうがいいだろうと、そんな風に思ってしまいました。
自分の感性を信じられるようになるには、それ相応の数をこなす必要があって、それはアートに限らず音楽でもなんでもそうだと思うけど、数をこなすことによってはじめて「自分でジャッジできる眼」が養われますよね。そしてようやく最近、写真集の分野でそれを獲得しつつあります。
「midday ghost」は一見すると、逆光でぽわーんとさせたエモいと言われる写真群に似てるように見えるけど、否、似て非なり、20歳の女性が撮ったという事実が、更にそういうカテゴリーに入れてしまいそうになるけど、違います、壊れたカメラはただの手段にすぎない、確固たる自分の世界がある。
ぼくは一時期、ローファイと呼ばれる音楽を熱心に聴いていた時期があって、ペイヴメントとか、ガイデッド・バイ・ヴォイシズとか、初期のベックとか、そういう人たちの音楽、王道のやり方なんて最初から気にもかけず、未完成の美学を追求していく、そんなローファイ精神が濵本さんにあるとは思えないけど、ぼくの中のローファイ魂が、4年前のあの時、うわ、いい!と思わせたんじゃないかと思うんです。傑作。
ヒゲのボリュームを少しずつ増やしていると、ある地点からいきなり「ヒゲが・・・」といろんな人に言われます。たぶん、会う人みんな言わないだけで、心の中では思っているようです。
ヒゲをたくわえることに、社会的なメリットはまったく無いと思われます。本当はもっと乱暴に生やしたいんだけど、一応社会と繋がっている身だから、いまの状態でガマンしています。
先日、LLビーンで買い物をしていると、店員さんから「木で何かをつくる職人さんですか?」と言われました。妙に具体的なイメージに戸惑いながら「いいえ、違います」と笑顔で答えました。でも、悪い気はしませんでした。
つくっていて、なんか違うなあと、ちょっとでも感じる時は、やっぱりそれは違うということが、そのあと苦労して正解を導き出した時にはっきりわかるんですね。結構深い沼にハマって、これたどり着けるのか?と不安になるけど、それでももがき続ければ、ちゃんとたどり着けるなー。そんな時はうれしい。
子供が楽しすぎて
「もう1回やりたい」
と言うときの気持ち
「お願い!」と言うときの
純粋な気持ちをぶつけられると
昔の自分を思い出して
心がぎゅーっとなる。
住所を持たない女の子と犬が、アラスカを目指して旅をする映画。といっても、すぐに車が壊れてしまい、旅ではなくなるんだけど。なかなかうまくいかない人生の停滞期が、ぼく好みの静かなトーンで描かれています。とにかく画面がビシッと決まっていて、特に序盤はずっと決まりまくっている。水たまりと犬のシーンとか、エグルストンの写真のようだった。客に媚びず、ぶっきらぼうだけど、技術者として信頼できそうな、あの修理工場のおじさんが良かったな。観終わって気付いたけど、もしかしたら劇中ずっと音楽がなかったかもしれない。あったのかな?ウェンディが歌う鼻歌だけが耳に残っている。
いまナフタとセテムブリーニが激しい討論をしているけど、この人たちは何について討論しているんだろう?さっぱりわからん。時折ハンス・カストルプが口を挟むと、決まってセテムブリーニに「未熟者は黙って聞きなさい」と叱られる、にも関わらず、またちょっと背伸びをしては叱られる。下巻になって難解さが加速しています。
魔の山を読んだ人はどんな感想を持ったんだろう?と、SNSで検索してみると、つまらなすぎて読み終えるのに3年かかったという人がいた。またある人は、作者のトーマス・マンって実はバカなんじゃない?と言う人がいて、思わず笑ってしまいました。ただ確実に言えるのは、「わからない」と「つまらない」は違うということ。
写真集は大きいほうがいいと思っていたけど、佐内正史さんの「写真がいってかえってきた」を手にして、これぐらいの小さな写真集もいいな、と思うようになった。コデックス装でぱかっと開くから、適当なページを開いたまま机の上にポンっと置いて、仕事中チラチラと佐内さんの写真が目に入る、という状況を楽しんでいます。
原作が好きだからこそガッカリしたくなくて、今まで観なかった映画版「ルックバック」を恐る恐る見てみたら、すばらしかったな!なによりシーンをダラダラやらずにさっとやるテンポ感、あの原作のテンポ感をアニメーションで実現していて驚きました。2人がコンビニでジャンプを立ち読みして入選を知るシーン、喜ぶ姿をガラス越しの引きのカットだけでさっと終わらせるセンス。あと「無音」の使い方も良くて、ニュースを見た藤野が京本を心配して電話をかけるシーン、あそこで藤野の呼吸音だけが聞こえる数秒間は緊張感があり、その後にかかってくる着信音は本気で怖かった。漫画を描き続けた藤野と、漫画を辞めた藤野、同じ藤野なのに、前者は孤独で苦悩を抱え、後者は明るく楽しそうだった。それでもなぜ描くのか?その答えを言葉では明示せず、映像だけで締めくくったラストとその余韻にシビれました。